悲しさ

悲しみは他人のものとは比較できない。

比べられるのは、自分が経験してきた悲しみ。それから、今後どんな悲しい出来事が起きるだろうかという想像しかできない。
その想像力で、他人の悲しさを推測することはできるけど、どんなに想像して悲しくなっても、それは本物じゃない。


地震のことを考えると涙が出るほど辛い。

だけど じゃあそれで、彼氏に会えない悲しさがなくなるかといえば なくならない。


彼氏に会えないと思うと、涙も出るし しばらく落ち込めるほど辛い。

でも 誰かに 「被災してあんなに辛い人たちがいるのだからそんな小さなことで泣くな」と言われても

涙は止まらないだろう。
かといって被災者を軽んじているわけじゃないのだ。

「お兄ちゃんは病気で苦しいんだからあんたは○○しなさい(するな)」
みたいな表現てよく聞く。例えその条件が、「兄ちゃんは食べられないんだからご飯を残すな」のように辻褄が合うものでなくても(「兄ちゃんは食べられないんだからあんた買い物行ってきて」みたいな)なんかむりやり通じるよね。
「食べられないくらい辛いのだから」に変換されるんだろう。

それって すごく日本人的な気がするな。
その考え方を駆使すれば、あらゆる欲望に蓋をする事ができると思う。

でも良し悪しだ。
突き詰めて、気付かないうちに過剰なストレスを背負いかねない。

きっと昔の日本人は、そうした「辛い人もいるのだから」「みんなそうだから」等の強い強い思い込みで、自らのAC的側面に蓋をし続けてきたんやろうな(´;ω;`)

勿論 不謹慎はいけない。
でも 自分の悲しみを見ない振りしすぎたり、無かったことにしてしまったりして、悲しみの行き場をなくしてしまうのは、とても危険だと思う。