地獄の中の真実よ

自分は常に連続性を自覚することなく、変化し続ける存在だ。

自分の根幹について考えるとき、どうしても「影」の部分が主張する。

あかるい太陽の下を歩くよりも、月明かりの中を手探りで歩んできた人生だと感じる。昼間を歩くことがあっても、太陽よりもその光が作り出す影を発見することにいそしんできた。

どうしてもマイノリティな自我が心の中にある。常に弱者や少数者に寄り添って、カウンターとしての存在でありたいと思う部分がある。

なぜそれが形成されたのか、理屈立てて語ることはできない。が、青年期になり、自我が固まってくる段階の現在において、それは揺るぎない自分の個性となってきている。

私の心の中には荒れ果てた大地が広がっている。
足元を救われ、そこに突き落とされれば絶望するのに、不思議と安心もする場所なのだ。
ミュージックビデオや映画で、イメージに近い大地が映ると故郷に帰ったような気持ちになる。

そこは究極に何もなく、抽象的な空間だ。私はどこか寂しい風景や切ない音楽に同調するが、その根元たるものはこの心の中の荒涼とした大地かもしれない。
ユング的に言えば母なのかもしれないけど、包み込みながら何も与えないなんて、まさに私と母の関係じゃないか。

それはともかく、近頃他人に言われて気づいた自分の特性は「真実を知りたい」ということだ。
まがい物や嘘が嫌いで、ほんとうの物を見たいと願っている。
真実というより真理かもしれない。真のことわりはきっと数学の公式のようなもので、汎用性の高い真実だと思うから。

人と付き合うときも、行動パターンやその人の思考の軸を知りたいと思う。
なぜその行動に至るのかという、その人特有の公式を知りたい。

今になって、昔カウンセラーに言われた「地獄の中にも真実がある」という言葉が響いてくる。誰か、海外の作家の言葉だと言っていた。

どこにでも求めさえすれば真実はある。
地獄の中の真実。今の私を震わせる言葉。荒涼の大地で、抽象の中をもがきながら、地獄の苦しみを味わってまで掴んだ真実が、私を助けないわけがない。

カウンターとしての自分、マイノリティとしての自分、私が見つける真実は私にだけ解ればいいから、私は私でいいんだ。