大切な友人との話

横浜で一日過ごせる最後の日、千葉に住んでいる女友達と会った。出張中会うのは二度目。
とても聡明で優しい、大学時代のいっこ上の先輩だった人だ。

いつもは彼女と、各自の内面の誰にも話していないような奥のほうにある記憶や
思いを呼び起こして語りあう。

彼女との今日の思い出は、語らった以外にもたくさんあって
とてもたくさんの驚きや喜びをもらって感激して、涙が出そうにまでなったんだけど
今、この興奮が強すぎて、ちょっと書ける状態ではない(ごめんなさい。)

今日は主に横浜観光をしたけど、別れるまでの数時間はファミレスで、
上記のような互いの精神を吐露する場を持った。
お互い心理学科だったからか(私は全然不真面目だったけど)
やっぱりそういうことに自然と話が向いてしまう。

というか、「話せる」相手なのだ。
本当に、そんなこと話せる人、中々いないから。ベクトル違ってたり興味がなかったり
するからね・・・(私は、心理学がっつり系の友人に軒並み嫌われたしw)

その中で今日は自分にとって大きな発見があった。

でも、なんだか勝手に自分の中でアハ体験的なのが起きたように感じただけで
同じ事をもしかしたら何度も何度も焼きなおしている気もするのだけど。

まぁ、とにかく。

今日の発見は「私は少女ではなくなった」ということ。
と、それに自覚的になったということ。
いや、もうすぐ25歳になるのに少女も何もないだろうwという感じだとは思うけど
これは年齢的な区切りではなくて中身の問題。


思えばここ数年で、自分の精神に、色々な変化があった。

・axes femmeというフリフリの洋服やゴスロリを愛好していた時代があったが、
いつしかそれらを着ることができなくなったこと。

フェミニズムを知り、自分のアイデンティティをそこに置いたこと。

・エログロやナンセンス物の作品を見たりするのが難しくなったこと。

あと関係があるかどうかはわからないし、整理もついてない問題だけど

・感受性のままに生きるのではなく、理性をもって社会に適応しようとするようになった

ことももしかしたら少し絡んでくるだろうか。


前にエログロが平気だったのは、自分に「少女」のアイデンティティがあったから。
例えば被虐の目に遭うのが少女や少年でも、自分が「少女」だからそれを「消費」する
という感覚は持ち合わせていなかった。
自分はそれを読んでもいい、見てもいい、というある意味特権的な視点があったのだと思う。

フリフリの洋服は、誰かに「守ってもらう」ための服だった。
もう自分を誰かの庇護下に置かなくても良くなった。
というか、「守ってもらう」代わりに多分何かを差し出していて、それを差し出すことを
放棄したともいえるかもしれない。(「差し出していた」のは何だったのか?そこまでは分からない)


うん。
少女として得る「特権」よりも、少女でいることで支払う「何か」や「規則」(?)に縛られる方が
強くなって、苦しくなってしまった。(すごく感覚的に語っているので抽象的すぎるけど)

女性みんなが私の言っている「少女」の時期を通るのかどうかはわからない。
名前が違うのかもしれないし。


色んなヒントがいくつもあったけど、今日まで気づかなかった。
というか、「少女ではない」自分に初めて意識的になったというか、言語化したというか・・・。
今日は記念すべき日になった。