いなかのねずみとまちのねずみ

母がよく、「お母さんはいなかのねずみだから、都会では暮らせないの」と言っていた。

いなかのねずみって、何の話だったかなと思って調べたら、イソップ物語だったんだね。
畑の野菜しか食べてないいなかのねずみが、街のねずみに誘われて都会に行く。都会には肉やチーズといった豪華な食べものがあったけど、人という強敵に脅かされるという危険も伴っていた。いなかのねずみは結局、安心して暮らせる田舎に戻った。

幸せの形は人それぞれ、という話。

体調を崩して、ゆっくりした時間を持つと、自分自身について考え始める。

今日は一日、吉田秋生の「海街diary」シリーズを読み返している。
鎌倉を舞台にした、人と人のつながりの話。とてもあたたかくて、せつなくて、すばらしい物語。

岡崎京子か、山岸凉子か、何を読もうか迷ったけど、エネルギーの少ない今日はこのマンガがピッタリだった。

海街diaryに出てくるのは、家族があり、近所付き合いがある、人間関係の密度が高い人々。
この間法事で実家に帰ったときも、このマンガの読後感のような、密接な繋がりの良さ、みたいなのを少し感じた。

普段本当に私は1人だなと。
シェアハウスにいるからまだ人の気配は感じるけどね。
それに、そうした密接な付き合いならではのデメリットというのもすごくよくわかるし。

そういうことから「自分の幸せとは何だろうか」と考えるうち、母の言っていた「いなかのねずみ」の話を思い出したのだった。

流れに身を任せて生きてるけど、今の生き方が本当に自分の幸せなのかということは、わからない。

ほんとうは田舎暮らしとか、ハワイのパンケーキ屋とか、援助職とか、今とは全然違う場所に今以上の幸せがあるのかもしれない。

まぁ今も幸福だからいいんだけど

ただ、ふと思ったのは、「表現」していないなーということ。
私は小さいころから絵を描くのが大好きで、今よりもっと辛かったころは自分を救うために絵を描いて描いてかきまくっていた。

絵に限らず、歌ったり踊ったりするのも好きだし、とにかく自分の中の熱量を、なにかの形にして排出するというのが組み込まれている人間なのだと思う。

なのに最近は全然そういう時間を持っていなくて、しかも本やマンガもずっと読まなくなってしまった。

病気にならないために体力を作るのも重要だけど、自分の幸福のために必要なシステムをちゃんと動かしてやらないといけないのかもしれない。

誰もかわりにやってくれない、誰も知らない、私だけのルール。
やっぱり私はまだ、自分とそれ以外の境界が曖昧な部分があるのかもな。

他の人には必要なくても、私には必要なんだから。私だけが理解して、私のために行動してやらないといけないんだから。

幸せに生きるぞ。