マボロシのような1日

今日はフワフワとした1日で、フワフワとしたまま終わっていった。

彼とのことを相談していた父に経過を電話で話したりもした。

今は、将来のことがわからない。今後どうしていきたいとかが、空白のまま。
彼のこと好きなところももちろんある。

でもそれがどうだとか、私にどんな意味をもたらすかとか、今は考えたくない。

泣いたり、歌ったり、絵を描いたりしたい気分。
夫婦もののマンガ読んだり映画観たりもしたいな。
いつもしないことをしたい気分。

日曜日、また一緒に過ごすので、それがどんな気持ちになることなのか、もう一度確かめたい。

自分って何なのか?
自分の幸せって何なのか?
とことん、痛くてもいいから、今は真実を知りたい。

あと今日は社長と、もし2年今の事業を頑張って結果が出なければ、お互いやめにしようかという、ビックリするような話も飛び出た。

人も状況もどんどんうつろうし、自分は今後どんな人と出会い、どんな仕事をして人生を紡ぐのか全然わからない。
全ては諸行無常だけど、その中でも生きてて良かったと感じたり、未来に希望を持てる状態でいたい。

実家で読んでいたお経に、「朝には紅顔ありて、夕べには白骨となれる身なり」という一文があって、強烈に印象に残っていた。

今日の話も、社長の持病がいつか悪化してしまうかもしれないこと、癌化するかもしれないということから出てきた。

何年も前にブログに書いた、「丘を越えて」という曲(好きな曲。)の成り立ちも、「古賀政男明治大学マンドリン倶楽部の後輩と稲田堤(現川崎市多摩区)にハイキングに行った際、満開に咲き誇る桜を背に酒を酌み交わし、下宿に戻り、ふと学帽についた一枚の桜の花びらに気がついた。これを見て二度と帰らぬ若さと青春がいとおしくなった。そのとき浮かんだメロディーを愛用のマンドリンを取り弾いてみた。おもしろいようにメロディーがつぎからつぎへと浮かんだ。」
というもので。

ふと、若さがいとおしくなったり、どれくらい生きられるんだろうと思ったり、そういう時、血が滾るような、生きなければ!という感覚があって、自分の中に生きる気持ちが帰って来る。そういう瞬間がある。

生命は始まりも終わりも切なくて、自分はどんな風にそれを描けるかなと常に思う。

楽しい瞬間、悲しい瞬間、その時にふと時が止まるようにして、「いつまで生きられるかな?」と、自分への問いかけが降って来ることがある。

変な話だけど初めてそれがあったのは小2の時で、子供ながらに人生は有限であることとか、生まれてきた意味とかを考えて、ワンワン泣いた記憶がある。

その頃から常に死ぬことや生きることについては意識していて、とはいえ、最近は目の前の生活のことに圧倒されて、帰宅してもひたすらキャンディを消すゲームをしたりしてた。

今は何か、寝不足もあるかもしれないし、海外を見たこと、彼と色々あったことで何かモードが違っている。
静かな夜の海に1人でいるような感覚。

これで、いいのかな。
どうなるのかな。

大きく迷ってるわけじゃないし、大きな不満があるわけじゃない。
でも、なんか静かに、ぼーっと、自分という存在を見つめ直したい時期にいる。誰かに起きたことを話しても、スッキリはするし、聞いてほしい自分も確かな自分なんだけど、今の問題や感覚を1人で受け止めたい自分もいる。