遠藤周作「悲しみの歌」を読んだ

キンドルで購入した「悲しみの歌」を読み終えた。

年末に読んで衝撃を受けた「海と毒薬」の続編。

勝呂医師のその後の人生の話だ。

ネタバレをしないでは感想はかけないので、この記事では結末にも触れる。

これを読んで、たった今心に大きく残るのは正義感の強い新聞記者・折戸と、かつて外国人捕虜を人体実験で死なせた医師・勝呂の間の溝だ。

折戸は「反省の色が見えない」として、勝呂の現在を新聞記事にするが、勝呂は過去を一日たりとも忘れた事などなく、自分の過ちと、故郷の村の医師として生きるはずだったもう1つの人生を想い、後悔しながら生きている。
しかも、勝呂の病院に来るのは堕胎を希望する若い女性も多く、生まれるはずの命を殺すという仕事は、余計に勝呂に生きることの悲しみ、矛盾を突きつけている。

状況は全く違うけど、見えているものの違い、わかりあえなさ、というところで彼と私の今を想った。

折戸の絶対に折れない自信、希望、若さ…勝呂の、「断れないわけではなかった」という答え、2人ともに間違いはない。
2人とも、ありのままで嘘がなかったとしても、驚くほどわかりあえない結果になる。
人生には、そういうことがいくつもある。人生は悲しい。

痴漢を被害者の目線で見る私も、痴漢冤罪に遭いたくないと思う彼も、一生分かり合えないかもしれないが、どちらも嘘も間違いもない。

その悲しみを想った。

ラストは、まさか、であり、やっぱり、という感じだった。
本当は生きて欲しかった。遠藤周作の本だから、痛みを感じながら、それでも人を救う方を信じて、一日一日を生き続ける、そんな終わりもありかと思った。
でも、そうではなかった。とことん悲しく、実直に生きても報われない、そんなありのままがあるだけだった。

ガストンが言ったように。
どうか、天国で涙をぬぐう人がいるように。
苦しんだ人こそ、どうか救われてほしい。そう思うから、私は天国というのを信じてるのかもしれない。

悲しみの歌は、とことん悲しい話だ。

だけど、何度も思い出していた、海と毒薬の実験のシーン。
続編を読んだことで、まるで勝呂医師と同じ気持ちのプロセスを辿ったかのように、ただ衝撃的なだけでなく、勝呂医師が眺めていた鈍色の海のような、けだるく、どうしようもなく、生きる気力を奪われ、緩慢になり、足を取られるような。
そんな心境もあるんだということが、少しわかった気がする。

人には、人を裁けない。
この間私は怒ったし、私の怒りは最もだけど、わたしには私の世界があり、彼には彼の世界がある。
ここまで生きてきた、このこと自体がすべての結果であって、私には私以外のものを変えることはできない。
そんな風にも少し思った。。

その人の立場にならないと、わからないものというのがある、圧倒的にある…。
二元論で解決できない問題は全て、人と人の争いの元になると思う。ツイッターなんか見てるとそうだ。
白か黒かにしかならないなら、ケンカは起きない。でも濃いグレーから白のようなグレーまで、この世には白か黒でないもののことの方が多い。ケンカも、どちらかだけのせいではないとよく言われる。

絶対善も絶対悪もない限り、揉め事がなくなるわけがない。

悲しい。

ちょうど海と毒薬を読んだ頃にツイッターでタイトルを見かけていたから気になっていたけれど、読めて良かった。